侵略の重み(アジア諸国にとっての侵略がはじまったこの日に思う。)

10月中旬からマレーシア、シンガポール、オランダ、イギリスと1ヵ月程の短い間であったが、日本の侵略の被害者となった人々、その家族に会う取材に出かけた。

今年、3月、シンガポールで仕事に出かけて以来の衝撃は、未だに僕の行動の源となっている。すなわち、僕はこれほど無知であって良いのだろうか、という歴史認識に関する自分の危ういまでの知識の欠如と、その状態で多くの国外の人々と友好的に関係性を築けていると思っている認識の危うさについての危惧があるからだ。自分が勝手に友好関係があると思っている関係性は、状況によっては、とても脆いものになることは、現在の日中韓、北朝鮮との歴史認識を巡る状況を鑑みれば、容易に想像出来る。

僕は32歳になるまで、太平洋戦争はパールハーバーから始まったものだと思っていた。確かに対米戦争においては、そうであった。しかし、その約1時間程前にマレーシアに侵攻し、対英戦争が始まっていたという認識は、僕の頭の中には知識として入っていなかった。当然、それ以降の華僑の虐殺、捕虜の虐待に始まる「東南アジア」での日本軍の残虐行為は、知識として断片的に知るものはあったとしても、それを個レベルまでブレイクダウンして、何かを知るという機会は一切なかった。

先月、マレーシア、コタバルにあるサバク海岸に赴いた。日本軍が一番最初にランディングした場所である。日本軍が侵攻を開始したという深夜に、その場所に向かうと真っ黒な海と波の音が、僕を海に引きずり寄せるような感覚を覚え、波打ち際で三脚を構えた僕は、二歩三歩と後ずさりした。1941年にこの場所で、数千の日英軍の兵士の死体が波に引きずり込まれた。海岸線の浸食が進む現在は、トーチカ等の、戦跡までもが海の中に沈んでいく。目の前には、戦争の痕跡はない。しかし、その同じ場所に立つことで、少しでも戦争の記憶を自分の中に引き寄せたいと思った。

それから、様々な場所に向かい、人に出会った。2歳の弟が日本兵の銃剣によって殺された兄。抗日軍ゲリラとしてたたかった兵士、子どもや女性を含む1000人が虐殺された村で生き残った男性。虐殺後、日本兵によって焼き払われた村。(その村は数年後には、プランテーションによって、その姿を大きく変容させる。)そして、マレーシアの各地を巡りながら、その虐殺された人々を悼む慰霊碑の数に圧倒される。

アムステルダムで、東南アジアで日本軍の捕虜となった父、祖父の子ども、孫に会う。ある犠牲者の支援団体からは、僕自身が「若い日本人」であるという理由から、紹介の申し出は断られた。僕がトラウマを蘇らせる引き金になりかねないからと。ケントで捕虜となった男性に会う。ロンドンで既に亡くなられた元イギリス兵の部屋を訪れる。リバプールで、捕虜となった人々が終戦後に降り立ったドッグへと向かう。歴史をトレースしながら、少しでも「加害者」としての日本人と、現在も続くその影響を考えながら、人に出会い、話を聞く。そこからしか、自分の無知と鈍感さを是正する道はない。それによって、もっと様々な人と本当の意味で良い関係性を築きたいと切に願う。

1年程かけて、やっと、写真を撮る為の前準備を終えることが出来たと思う。これから5年かかるか10年かかるか分からないが、関わりのあった全ての地域と人々を訪ねたい。

過去を知ることを自虐的と捉える風潮があることを知っている。しかし、人に会い、言葉を交わし、その悲しみの深さに触れる度に、その言葉を使うことが、いかに暴力的で残忍で許しがたい行為なのか、怒りに震える。全てのイデオロギーを超えて、少しでも戦争の重みを僕ら若者が感じられたらと、開戦のこの日に願う。

(この写真プロジェクトは、スペインをはじめとするヨーロッパ数カ国での展示が既に決まっていますが、まだ日本では、恥ずかしながら何も動き出せておりません。というか、どうしたら良いのか、まだ良くわかっておりません。今後、取材でまとめたインタビュー等を冊子にして販売したり、取材の報告会を出来たらなと思っております。ご興味ある方は、是非、ご連絡を頂けたら嬉しいです。kazuma924(at)gmail.com (at を@に変換してください。)















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