写真を勉強すべきなのか。

ロンドン芸術大学院で最も大きかった学びは、参照すべき写真家を多く知れたこと。大学院の授業は週2日の朝から晩まで、1月から3月、4月から6月、9月から12月という3期に分かれ、1年で終了する。(イギリス国内のフォトジャーナリズムの修士は1年で終了するものがほとんど。)課題の為に読まなければいけない膨大な本のリストを除けば、そこまで大変なカリキュラムではなかった。ライター出身のチューターによる授業は最後の最後まで英単語が難解すぎて(おそらく美しすぎて)何を言っているか分からなかったが、、、(彼女のメールの文面はいつも「Happy reading」で終了する。)

所謂、「瞬間を切り取る」的な写真を撮っていた当初から、様々な取材を続けていくにつれ、物理的に撮影出来ない空間、時間というものをあることを知った。努力では如何せんどうにもならないもの。写真では撮れないもの。それから徐々に僕の撮影は「不可視なものを表現する」というような姿勢に変っていったわけだが、僕が国内で知ることの出来た速報的に伝えるフォトジャーナリストのスタイル(新聞やテレビの日々のニュース)の中にはその問題に対する答えを見つけることは出来なかった。「瞬間を切り取る」写真というのは、ある種、切り取るべきものが現実に存在するからこそ、シャッターを切れるわけであって、もし、その現実に見えないものがあったならば、それを撮ることは出来ない。それには現実に写らないものを表出される、何らかの仕掛け仕組みが必要になる。それで、海外のフォトジャーナリズム、ドキュメンタリーに目を向けてみることにした。

そして、大学院の1年間。先生たちが教えてくれた膨大な写真家の過去の取り組みは正に目から鱗であった。フォトジャーナリズムの歴史を学びつつ、時代の変遷とともに変わってきたスタイル、同じ主題に対する様々な写真家の表現方法。より現代アートに近いようなコンセプチュアルな仕事。その膨大な数に圧倒されつつ、本当に良い学びとなった。そして、フォトジャーナリズムやドキュメンタリーということをもし自分が教えるのであれば、そのキーの一つとなるのは、自分がどれだけ、生徒たちに対して参照すべき適切な写真家の例を上げられるかにかかっているように思えた。僕の大学院での日課は、授業であげられた写真家の写真集を全て図書館で読むということであった。正直なところ、僕の英語力では、全ての写真家の全ての内容を授業中に把握することは不可能であった。それでも、図書館に行けば、それぞれの写真家の仕事をじっくり時間をかけて学ぶことが出来た。(ロンドン芸大の写真集の蔵書は世界屈指だと誰かが言っていた。誰だったか忘れたが、、、)図書館の蔵書はもちろん洋書なわけで、それらは自分が普段目にはすることの出来ない本の数々。ロンドンにいる間、平日はほぼ大学院に行っていたが、閉館の10時まで写真集を眺めた。

前回ポストしたワークショップに関するアイデアに対して、様々な嬉しい反応を頂いたが、ワークショップを開く機会が来年実現しそうであれば、参加者それぞれにあったそれらの写真家を紹介しながら、様々なアプローチを学んでいくということも、一つの大事なステップにしたいなと思う。

ブログのタイトルの答えになっていないうような中身になってしまったが、ヨーロッパの写真家の社会問題にエンゲイジする為の様々なスタイルは本当に勉強になった。





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