アンパンチとバイキンマンに関する憂鬱

既に二、三歳の子供にとって殺戮、死や暴力が娯楽として消費されるという現実(それがどの程度の認識であるかは別として)は、ある程度想定していたものの、子育てをして、それが自分の問題の一部となるとあまり笑えない状況だなと、年を越しながら考えた。

アンパンチでバイキンマンをぶっ飛ばした後に、ジャムおじさんのような人格者(また、ばたこさんのような優しい女性)を含めた集団が、バイキンマンが飛ばされていく姿を見て笑っている。そして、それを見た息子たちがまた喜んでいる。ここ最近、そんな、なんかとてもスッキリしない光景を見ながら、これは親が経験しなければいけない一つの通過儀礼なのだろうか、と苦々しい気持だ。保育園に通いだせば、そこから、少し飛躍し、戦隊モノによる銃の乱射が始まる。もちろん、自分も経験し、多いに楽しんだ経験のある娯楽であり、この単純な正義対悪の図式の楽しみを知らない訳ではないが、なんだかとても複雑な気持になる。こどもに撃たれて倒れるという、この決まりきった一つの遊びが持つ社会的な役割について考え始めないわけにはいかない。

映画、ロード・オブ・ウォーで武器証人役を演じるニコラス・ケイジがおもちゃの銃(自分の子どもが遊んでいた)をゴミ箱に捨てるシーンは映画の中でも印象的だったが、出会う子どもたちの多くに銃で撃たれなければいけない年越の経験は、あのシーンを何度も思い出させた。
アレッポでは虐殺まで起きたと言われているのに、日々の生活で、なんらかの媒体から戦争の痛みを感じ、それを他者と共有しようとする程の何かを得ることは困難であろう。また、その必要性を感じること自体がほぼあり得ないことのように感じる。

僕はとてもくだらない話をしているのかもしれない。そんなことは既にこの社会の前提として、気にすべきものでもないのかもしれない。現代日本社会においては、子どもが成長するステップアップの一つに過ぎないだろうと。ましてや、自分自身、真っ当に育っていると信じている以上、そんなものは別に子供の成長過程にとって問題ないんだよ、と強く信じる必要があるのかもしれない。自分だって経験し、そしてむしろそれを好んで遊んできたのだから、と。こどもの笑顔のために殴られ、銃に撃たれるのは、ごくごく普通の日常であるんだよ、と。

しかし、教育をする上で、とても非合理的なこのステップは、とても厄介だと思わざる終えない。子育てから少し解き放つ時間を与えてくれるという意味のみにおいて、アンパンマンには感謝しなければいけない側面があるし、実際とても頼っている訳であるが、アンパンマンやジュウオウジャーが憎くてたまらない。子どもがテレビを見て、自分が何かする時間を持つという意味においては、教育テレビという素晴らしいプログラムがあるはずなのに、アンパンマンの魅力は、教育テレビをしのぐらしい。または、僕の見せ方が良くないのだろうか。

狂った暴力(アンパンマンをそこにいれていいかは別として)を子育ての環境下で子どもに社会が提示し、そして、その上で暴力は良くないことだよ、とか、戦争は良くないことなんだよとか、子供たちに正義感を持って諭すということが、どれだけ非合理的なのだろうか。なぜ、そんな煩わしいステップを踏まなくちゃ行けないんだよ、と。しかも、こんなにも複雑な社会を、あんなにも単純化した図式で提示し、しかも、存在意義として、教育ではなく、消費に重点が行われているという事実がとても空しい。そして、そこで描いているのはトランプがやっていることと構造的にさほど変わらないように思う。そして、最もやっかいなのは、そんなことを考えた上で、アンパンマンを再生してしまう自分自身の存在だ。

また、思う。このくだらないエンターテイメントのシステムを子ども時代に経験し、育った親世代が作り上げた時代がこの世の中であるならば、「子どもたちがそういうものを見たって真っ当に育つよ」と思う前提(がもしあるならば)をまず疑うべきなのではないだろうかと。他者の痛みに関する鈍感さ、不寛容さの責任をそれらに押し付ける気はないが、もっとメディアとその影響、リテラシーについて真剣に考え、子どもと向き合っていかなければいけないなと、正月早々反省した。もちろん、子どもの成長はもっと様々なファクターによって形成されることは分かっている。しかし、メディアが与える影響は、それなりに大きいはずだ。


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