パリとミーハーさとフォトジャーナリズムと ーアートマーケットにおけるドキュメンタリーは実社会にどのようにリーチするのか。

11月のパリフォトウィークはミーハーな気持になるには十分すぎる程の素材が目白押しだ。秋の日を浴びながらシャンデリゼ通りを歩き、紅葉した木々を眺めつつ、グランパレを目指す。グランパレの中央玄関にはPARIS PHOTOの大きなたれ幕がぶら下がり、そこでは若者がスマートフォンでセルフィーをパチり。オープニングに訪れるてすぐ、友人がサラ・ムーンを紹介してくれた。ベンチで休憩しているとおもむろに隣に腰掛けた男性はマグナム現会長のマーティン・パーだった。こんな機会はなかなかないだろうと思い、仕事の為に素晴らしい動物の写真集を探しているんだけど、何かアドバイスをもらえないだろうかと訪ねた。僕のノートに二、三、リストを書いてくれた後、左手にたまたま持っていた動物が表紙のカタログをこれは君へのプレゼントだと僕にくれた。スタンリー・グリーン、サルガド、ドナルド・ウィーバー、名前を挙げたらきりがない程の写真界のスーパースターたちが自著のサイン界の為にこの4日間のフェアーに訪れる。憧れの写真家が自分と同じ空間にいる。各国の業界関係者がいて、直接顔を見て仕事の話が出来、何か先につながる出会いが少なからずある場所。僕のような若造でもサイニングを行った際には3日間で8000円程の本が130冊売り切れた。今年も出版社のブースから僕の本のストックが全て売り切れた。ここは、ビジネスの場だ。話がうまくすすむと、ミーハーな気持ちに拍車がかかる。

そして、グランパレを後にして、冷たい夜風に吹かれて、ふと我に返り思うことは、この「ビジネス」はどのようにして、僕が撮影させてもらっている主題の解決に役に立つのかということだ。本がヨーロッパのアートマーケットで売れること、またはコンペで評価されることが、どれだけの意味を持つのか。どうやって、写真が実社会にリーチしうるのか。それは僕にとってまだまだ大きな疑問であり課題だ。短期的な視野で考えれば、ほとんど貢献していないことは明らかであるように思えてしまう。では、長期的な視野ではどうなのか。それが僕にはまだ分からない。具体的な答えがすぐ出るような疑問ではないということはもちろん分かっている。自分が伝えたいと思うことをヨーロッパの出版社と一生懸命に作る。それ自体がいかに幸運なことで、素晴らしいことなのかは、十分に分かっている。しかし、その先の景色はボケボケである。それ実社会にどれだけリーチするのか。

昨晩、ある本(先進各国が途上国の土地を大量に買い占め、現地の人間を奴隷制度のような状況下で労働させている問題)の出版発表会で、フィリピン出身の女性がある問いかけを投げかけた。本の題材として、フィリピンでの搾取の問題が取り上げられているけど、この本はどのような形でフィリピンの問題解決に寄与するのか?と。この類いの問いかけは珍しい問いかけではない。そして、その答えは簡単なものではない。写真が出来る限界と可能性の話。

僕らアジアをベースにするドキュメンタリー写真家はまた別の問題に直面する。写真を撮って食べていく為の場がアジアには欧米と比べたら比較にならない程少ないということだ。5年だけではあるけれど、毎年、毎年、日本が遠くなっていくのを感じる。日本で撮っているのに、発表する場が離れていく。それはもちろん僕がまだまだ未熟なわけであって、努力が足りないのかもしれない。それを環境のせいだというのは、自分の力の無さを棚に上げて文句をたれているにすぎないことも分かっている。現に日本で撮り、日本で生きている人がいるじゃないか、と言われてしまいそうだ。それは、事実だろうし、僕は自分の実力の無さも認めざるを得ない。しかし、それがだただの文句ではないことも事実だ。バランスの取り方の問題なのかもしれないが、そのバランスをどうとれるのかというのが今、抱える大きな課題である。

そんなことを考えている矢先に一本のメールがあった。中国人の友人の写真家から。僕らは、アジアで写真を撮り、欧米で発表している。この環境を変えていくような場を僕らで作り出そうよ、と。自分たちの写真を自分たちの土地で見てもらおうよと。もっとディスカッションやワークショップが欧米の標準で出来るような環境を作っていこうよと。いつもはメールの返信におっくうな僕だけれど、このメールだけはすぐに返信した。「是非!」と。既にアジア各国にフォトフェスティバルは存在し、それは先を行く人達の大きな功績である。そこからもう一歩、僕らの世代は新たな何かをしなければいけないのだと思う。

実はその前日に日本の若い写真家たちと同じような議論をしていた。もっと、ディスカッションをしながら、日本の問題を発表出来るような場所を自分たちで作っていこうよ、と。僕らの世代は明らかにフラストレーションを感じている。発表する場が国内において、著しく限られていること。日本社会のヒエラルキー。老人に優しく、若者に厳しい国、日本。グローバル化と言いいながら、どんどん内向きになる国、日本。男女の平等を唱いながら、実際はどう「活用」できるのかという次元でしかものを考えない国、日本。こどもに不寛容な国、日本。


でも、文句をいうのはもう止めよう、と。僕らの世代は僕らの世代なりの問題解決法をさぐろうよ、と。今回のヨーロッパでの収穫は、日本の友人たちとの話し合いと中国から送られてきた一通のメールかもしれない。来年が楽しみだ。

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